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仏教は暗い? 陰気くさい? 堅苦しい?

死んだ人がちゃんと成仏するための教え?

お坊さんは、普段はお寺の掃除をして、誰か死んだとき来て、お経を上げてもらう人。

お寺は、誰か死んだときお参りして、お骨を預かってもらう所。

ご先祖さまを守ってもらう場所。

仏教って?お坊さんの仕事って?

 確かに、お葬式・ご法事で、お経も上げますし、お骨も納骨堂に預かります。しかし、それだけが仏教でもなく、お坊さんの仕事ではありません。

仏教は死んでからの教えではない。

今のあなたのための教えです。

 仏教を”死”とだけ結び付けて考える人が多いのが実情ですが、実はその”死”たとえば「肉親の死」を自分の仏縁として、今、生きている。あとに続く「限りあるいのち」をいただいて、生かされて生きている自分の「いのち」を、「人生」を、しっかり見つめさせていただく「仏様のみ教え」。

 私が瞼を開いていくべき、人生の拠りどころとなるべき、お釈迦様の直説(じきせつ)[直説:弟子(それは、あなた)に向かって説かれた教え]それが、仏教です。

 人生いたるところ、山あり谷あり。今、どう生きていったらいいのかわからないと、悩んでいるあなた。そういう今、生きている「あなた」に説かれてあるのが仏教です。決して死んでからの教えではありません。

私の「いのち」はどこから来たのか?

どこに向かって歩んでいるのか?

その足どりは確かなものなのか?

 一度、ゆっくり自分に問うてみてください。あなたの一度きりの人生を、いかに生きるべきか。そして、どうか、あなたの人生に「生きる意味」を示してくれる仏教に、お出逢いください。

合掌 

光明寺住職: 傍示 裕昭(かたみ ゆうしょう)

確かなよりどころを持った人生に

講話 行信教校教授・天岸浄圓

 真宗が生活のリズムとなることで、心豊かな日々が過ごせる−−。

門徒として、ぜひこうありたいという暮らしぶりを、行信教校教授・天岸浄圓さんが語ってくれました。

マイナス・イメージばかりが先行する宗教

 あまり遠くない昔、真宗門徒の親は、子どもたちが独立するとき、ご本尊を安置したお仏壇を用意して、新しく家庭を持たせたと聞きました。ですから、家庭にはおのずから、掌をあわせる環境が備わっていたのです。その場で親から子へ、子から孫へと教えが伝えられてゆきました。

 現在では、そのような伝統も薄れ、多くの人が「家庭で誰も死んでいないから、うちに仏壇はありません」と当然のようにいう状況です。

 しかも、生活形態が大きく変わり、若い人たちは職場や学校などの関係で、親と同居できる人が大変少なくなりました。また、学校などの公的な教育の場では、宗教一般についての基本的な教育すら、行われていないのが現状です。

 このような中で、宗教というと、先のように「死」に関する儀式と考えるか、心ない宗教活動が人々の不信感をつのらせ、マイナス・イメージばかりが先行しています。このような状況では、宗教を「よりどころ」にしようとする生き方は、ますます希薄になってゆくといわねばなりません。

 本来、宗教とは「帰依」ということばが表すように、「よりどころ」を持って生きるということです。「よりどころ」を持った生き方とは、「わがまま」「気まま」に生きないということをあらわしています。

 人は人生の節目節目に、重大な判断を迫られる出来事に必ず出合います。そのとき、自分は何を「よりどころ」として、是(まこと)と非(いつわり)を定め、善悪の判断をしてゆくのか、その判断の基準になるものこそが「よりどころ」であり、宗教、信仰なのです。ですから、単なる形式であってはならないのです。人は「よりどころ」を失うとき、我欲を無批判に肯定する、傲慢な生き方に向かって迷走してゆきます。

「生」に焦点を定めた法要、

儀礼も見直すべき

その足どりは確かなものなのか?

 あなたは、何を価値判断の基準としておられますか。

 もともと「生」や「死」にかかわる宗教儀礼や習慣は、その人の価値観にしたがって生まれ、伝えられてきたものです。長い伝統に培われた「葬儀」や「年回法要」には、「死」を通してかけがえのない”いのち”を見つめるという、重要な意義がこめられています。

 その反面、「生」に焦点を定めた法要、儀礼も見直すべきではないでしょうか。”いのち”の誕生をよろこび、当然と思っていた親子の縁に不思議さを感じ、お寺の阿弥陀さまに初めてお参りをする「初参式」。お寺での子ども会や日曜学校を通して、宗教、仏教に対する知識と情操を育む努力が大切です。やがて結婚。幼い頃からおなじみのお寺の本堂での「仏前結婚式」、また各地の本願寺別院での厳粛な「結婚式」、目を転じてハワイの本願寺で「仏前結婚式」など、本気で考えてみては・・・。宗教は「生」と「死」を一貫します。

 今日まで「誰の世話にもならずに」生きてきた人生を、視点を変えて、そこに有形、無形の恵みを感じることができたなら、生かされ続けてきた”いのち”のありがたさを知ることができるでしょう。

 今日の日まで、五十年、六十年と生きてきた日を、一瞬の間も絶えることなく支え続けてくれた大地の存在に気付くことすらなかったのでは・・・。生きていることの実感も・・・。

 豊かな感性を恵まれるところに、あらためて阿弥陀さまへの報恩の気持ちが生まれてきます。その”いのち”のよろこびを子どもや孫に伝えてゆく、「生」を見つめた仏事も意義深いのではないでしょうか。

 


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